日常を混ぜたい
こんにちは、皆さん、ダイエットしていますか、していないですか、しなさい。僕はしています。ところで僕はエッセイみたいなのを読むのがわりと好きです。文章を読むのは本当に苦痛で前世の最後は本棚につぶされたんだと思うんですけど、エッセイみたいなのを読むのは好きです。人の生活を横から眺めるみたいなのが好きです。自分の人生と違う人生をみるのはいいです。たまにその辺歩いてる人の家についていきたいなという気分のときがあります。中谷美紀様のないものねだりっていうエッセイみたいなのは初版の平成20年のやつがわりとくたびれ感出てますけどさっきもちょっと読んでました。中谷美紀様のインド旅行記もそうですけど、適当に開いたページから数ページ読んで閉じる、みたいなことができるから僕はエッセイ的なものが好きです。窓を開けて換気するみたいに、日常から数歩引いたところに自分をもっていける感じがします。あと誰が書いたかみたいなのもわりと重要ですよね。なんていうか取り繕いに繕い尽くしたみたいな人が書いてるのはなんかボエーってなります。きれいごとばっかり言ってるみたいなの。いや、ある意味その時の価値観でほんとにそう思ってきれいごと言ってるみたいな人はOKなんですよね。リアルじゃないですか。そうじゃなくて、なんていうのラジオのパーソナリティやってるうちにお悩み相談とかできれいごと言ってたらファンがついてきてファンが求める道化を演じ続けるうちにポッドキャストなんかやり始めてさらにファンとのエンゲージメントが強くなるにつれ半分宗教みたいになってきてるみたいな人が書く文章は、おもしろくないですね。その点中谷美紀様の2008年くらいのエッセイは素で取り繕ってる感じもあっていいですよね。代官山の駅前で売ってる精進料理の弁当を最近食べている、みたいなの。あと、ガチベジタリアンになったりするのもインドでトラックの荷台に積まれた大量のヤギの頭見てもう無理だってなるみたいなのがありますし、2025年現在のものすごき仏のような美しき落ち着きオーラinオーストリアみたいな生活も、ぽっと出の意識高い系じゃなくて長年の地続きの先って感じがしますもんね。裏付けが大事で、裏付けは説得力を生むじゃないですか。そう、説得力なんですよね。聞き心地のいいこと並べて信者獲得してるポッドキャスターみたいなのと違って説得力がありますよね、なので僕は誰が書いたエッセイなのかみたいなのは重視します。人によるのかもしれないんですけど、僕は割と普通に生活してたら、すごく視野がせまくなってしまうタイプで、半径30cmが人生みたいになってしまい目の前にある仕事PCのチャットで一喜一憂ダルみたいな感じになるのですが、例えばちょっとスーパーに行こうと外に出るだけで「ワ~~~~!これが外の世界なのね~~~!」ってなるんですよね。風とか匂いとか日射しとかで。視野狭窄強制解除みたいな。なんていうんですかね、それによって自分が無意識に半径30cmの世界に入り込んでたみたいな土手の穴ぐらに頭突っ込んで「ワ~真っ暗人生真っ暗だ!」って思ってたみたいなことに気づくことがあり、これって本当によく起きるというか油断してたら毎日起きてることなんですが、エッセイもこの穴ぐらから引っこ抜いてくれる効果があるんですよね。なんていうか日常って澱むじゃないですか。水みたいに、ずっと動かずその場に置いてたら。だからかき混ぜるなり新しい水入れるなりしないといけなくて、それってやっぱり意識的にやらないとなあっていう気がするんです。体がなまるから、運動好きじゃないけどジム行く人みたいな。まあ僕はジム行かないし運動嫌いだからその気持ちはわからないですけど。その意識的な混ぜ混ぜ行為なこととしてエッセイもそうだし、あとは最近僕は旅に出てることが多くて、別にもう行きたくて行きたくて仕方ないって感じってよりは、新しい水足してこうっていう感じで行ってます。ぼーっとしてたら人生で訪れることがなかっただろうなってところにばかり行ってるので、意外な発見や感動やがっかりがあります。安定って素晴らしいことで疲れない気がするんですけど、僕なんだか最近安定で居ることがむしろ疲れるというか精神を蝕むなっていう感じがしてきたんですよね、まあバランスだと思うんですけど。自分と世界は交わってなんぼ、みたいな、とにかく水をかき混ぜ続けたいっていうか、旅に出ることもそうだし、人に会うこともそうだし、40代になって混ぜられるうちに混ぜとこうみたいな気持ちが強いです。旅に出られるときは出たいし人に会える時は会いたいし、家にいないといけないときはエッセイ読んで、日常を混ぜたいです。自分と自分以外の世界と。
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