Augustsky

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マティアス&マキシムを観た

早朝から会議がセッティングされてたので寒くて眠い中嫌々起きたのにメール開いたらヨーロッパアメリカ勢がこちらの夜中のうちに「今日の会議やることやってないしキャンセルしようぜ」ってメール飛ばしててキャンセルになってたので映画を観ることにしました。というわけで、前々から観ようと思って観てなかったマティアス&マキシムを観ました。なんだか、もういっぱいいっぱいで、ちょっと一度見ただけだと見逃していることがありそうなんですけど、僕は基本同じ作品を間をあけずにみることできない(余韻の魔法が解けそうで)ので、今みたままの感想を書きます。なんていうか、観ていて、この映画を理解するためには自分にさまざまなものが欠けていると感じました。まず、言語的な意味で、字幕ではもはや無理なんだろうな、と思うところがたくさんありました。フランス語がわからないので字幕に頼るしかないのですが、明らかに字幕化する過程で抜け落ちている情報や情緒がたくさんあるだろうと思いながら見ていました。「花畑のオネエ」とか、誰を指しているのか、フランシーヌを揶揄してるのかな、それとも何か向こうの人にはわかる固有名詞なのかな、それともただダサい服を形容しているだけなのかなとか、考えていると物語に取り残されてしまうので、情報の消化が追い付かないままストーリーを追っかけるのに精一杯でした。あとは文化的背景への理解や知識が足りないことで、きっと何か意味のあることなんだろうと思うシーンにもなんの情緒を掻き立てられることもないという現象がありました。例えばマリファナが出てきてもそれにまつわる経験などが皆無なので、ああ、マリファナを吸ってラリってんだなあとしか思わないのですが、あの文化圏に身を置いていたら、夕方に別荘?かなんかに到着していきなりマリファナ吸うということの頭おかしい感とかがよくわかるのかもなあとか思います。それにしても、洞察力を要求される映画だなと思いまして、なんていうんでしょう。僕不思議だなと思うのが、日本文化というのは一般的にハイコンテクスト文化(空気読む文化)とよく言われるじゃないですか。その通りだと思うんですけど、欧米、というくくりは雑かもしれませんが、カナダも含めてローコンテクスト文化(なんでも言葉で言わないとわかんない文化)圏ですよね。その文化圏でこの映画のような、行間を読みとるというか、察することを要求されまくる映画が受け入れられているのが不思議だなと思っていて、これは僕の邪悪な邪推なんですけど、なんていうかハイコンテクスト文化圏では、侘びさびとか粋とかっていうものがある意味普通に存在して「ああ、そういうことね」というのがあるところを、その概念がローコンテクスト文化圏においては普通理解されないところ、それを理解する人々が出てくることにより、ある種「わかってる勢」が生まれてその人たちが作るものはなんだか雰囲気があってかっこいい、という風になりもてはやされて時代の寵児になって、世界的な評価を得て、日本のようなハイコンテクスト文化圏にも入ってきて、でも日本人は舶来品に弱いので、とっくの昔から自分達の生活に根付いている侘びさびのようなものが、舶来品の皮をかぶって形を変えて入ってきたのを「おお、すごいなあ」つって観てるところあるんじゃないか、ということを考えたんです。と言っても、昔兄が借りてきたり買ってきたりしたのをついでに横で観てたフランス映画とかだって大概意味不明だったりした記憶もあるので、ただの思い付きなんですけど。とにかくこの映画(どういうことだろう?)って考えることが多かったんですけど、それを考えるにも文化的背景などの知識が欠如しているので仮説を立てようにも立てられないなというところがあり、難しかったです。相手に解釈を委ねる系の作品だと、ある程度文化的背景や価値観を共有しているのが前提だと思うので、委ねる場合は委ねたいところはふんわりにしとくとしても、それ以外のところである程度明示的なフォローがないと、よその文化圏の人からするとよくわかんない、になるなあと思います。まあ別によその国の人に見せるために映画とってるわけじゃないよと言われればそりゃそうだ、ですけれど。あと、文化的背景や知識を抜きにして、物語内で補完できる情報としては、マティアスは好きな人(マキシム)のことが絡むと記憶喪失になったり物事に固執する癖が出てしまう設定なのか、それは最初の方の心理学うんぬんの話で暗喩されているのかとかそういうのもよくわからなかったです。母親と弟との関係とかも、察しというか、察してみた結果だと「母親はクズなんだけど兄は一生懸命世話してて、一方で奔放に生きている弟は母親からの電話に折り返しすらしないのに、結局母親は弟がかわいくて最後の方いっしょにダンスしてるのを兄は外から窓越しに見てやるせない」みたいな察しをしないといけないのかなと思うのですが、そんな察し一般的欧米人にできるの?(舐めた発言ですみませんが)と思って、映画評論家的な映画ファンとかはそういう考察をするのかもしれないですけど、一般的欧米人無理じゃない?という、なんていうか、描かないことによって余白を生み出し解釈をゆだねることで深みを出してる感じにしてるっていうこと、昔からあると思うんですけど、それってどうしたらいいの、伝えたいこと伝わらないじゃないという気持ちになり、マキシムの母親も「言葉で言わないと(おいしいと思ってるかどうかわからない)」みたいなこと言ってたじゃん、という混乱に一人で陥ってしまいます。じゃあもうそういうの抜きにして、観て、感じたままに受け入れればよいじゃないか、ということだと、マティアス暴走後やっぱり戻ってきてソファで意味不明の笑い止まらないからの物置でマキシム待ち伏せシーンのところの、マティアスがマキシムに近づいて手を握ったりしてるところのマキシムのそわそわ感がはちゃめちゃに可愛かったです。

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