グリーンブックを見ました
まず思ったのが、こんな映画が公開されて受け入れられる世界になったことがよかったね。ということです。途中でドクが言ってたように南部の地域だから黒人差別をして、北部だからしないという単純なことではなく、人の心の在り方はさまざまだよね、と思いました。一方でレストランのように商売でやっている人は地域で生きていかねばならない以上地域のしきたりが例え時代にそぐわなくとも従わざるを得ないこともあるでしょう。トリオの人が「天才」であるだけでは十分ではなく、「勇気」が必要なのだとドクの勇敢な行い(黒人でありながら楽に稼げる北部ではなく敢えて黒人差別の厳しい南部をコンサートツアーで周る)を評していましたが、勇気があっても天才ではない人は、自分の生活を捨ててまで地域の空気に逆らい職を失ったりすることはできないということです。それは勇気ではなくて無謀なだけですね。秀でた力と勇気があってこそ差別に抗うことができる、逆に言えば秀でた力があればあとは勇気を出すだけ、とも思えました。
この映画の舞台である1960年代あたりに「黒人の上流階級的な人が下層階級の白人にマナーや教養を授ける」なんてことを映画化したら大問題だったかもしれませんが、それができる世の中になったんだなと思いました。これは黒人の方で辛酸をなめてきた人々からすると溜飲が下がる思いかもしれません。ただ、この映画が白人に対する黒人からのただの意趣返しかというと、そうではないことがわかります。それはトニーの妻の行いもそうですし、物語の後半、善人の白人の警官が出てくるところもそうです。ここではトニーもドクもすっかり白人警官に対する不信感が募っていますから、観客である僕らと同じように始めからこの警官を疑ってかかっています。けれどこの警官は車がパンクしていたことを教えるために車を止めたのでした。その後タイヤの交換をする間も交通整理をし、別れ際には「メリークリスマス」と言って二人の車を見送ります。結局は人の心の問題なのかもしれないと思わせるシーンです。
トニーは最初、黒人が使ったグラスをゴミ箱に捨てるくらいの差別っぷりでした。けれど彼は妻への手紙に「アメリカの田舎が美しいのを初めて知った」と言うようなことを書いています。彼はNYのブロンクス育ちです。奥さんも親戚もそうです。母国アメリカの平原風景すら知らなかった彼は、ごく限られたNYの街で人生を送ってきたことがわかります。けれど初めて見た風景に彼は感動しています。知らないことが偏見を助長するというのはいつも言われていることではありますが、この物語でも彼はブロンクスでの常識で生きて、黒人に対して蔑む常識がある種当然の世界に居たところを、ドクとともに自分の世界の外に出ていき、さまざまなことを見て、感じ、知ります。トニーは根が善良だからこそドクとの旅の中で偏見に打ち勝つことができたのだと思うのですが、一方でこんなに善良な人間でも自分が生きている世界の常識には疑問をもたないということです。これはとても含蓄のあることだと思いました。
ただ、トニーが生きてきた世界の常識が間違っているのかと言えばそうとも言い切れないかもしれません。白人だろうが黒人だろうが悪いやつは悪いですし、現にドクがショパンの木枯らしを演奏した黒人が集うバーを出たときに悪いやつらが金を奪おうとしていました。こうやって黒人の犯罪で被害を受けた白人がいれば、マイノリティである黒人が十把一絡げにされてしまうのは心情的に否めません。ただ根底に黒人の貧困がこういった犯罪を生み出すのだとすればそれが奴隷制度に行きつくということもあるのかもしれないので、一概には言えないですが。ただ、これはマイノリティの宿命であって、例え白人であってもアジアにくればマイノリティですし、差別するかどうかは別として、犯罪を犯せば目立つでしょう。これは避けようのないことです。
僕はこの作品を見て、自分がゲイであることに重ねずにはいられませんでした。深くは語られないものの、ゲイ的な要素も多少作品内に出てきますが、それ以上にドクの黒人としての振る舞いについて考えさせられるところがありました。彼はいわゆる白人の上流階級のような暮らしをしつつも自分が黒人であることに信念をもっています。けれどいわゆる黒人の生活とは程遠い、自分はどちらにもなれないことに思い悩んでいます。ただ彼は、差別に打ち勝とうとしています。そのために自分の才能を使って、勇気を出して差別の激しい地域をコンサートで訪れます。彼の立ち居振る舞いは洗練されていて、それは彼が自分を黒人の代表として恥ずかしいことをすまいと戒めているようにも見えます。目立つ人には責任がつきまとうということを彼は理解しているのだと思います(途中、プールで捕まったシーンは彼もまた人間であることを示唆していて、だからこそ普段の振る舞いが彼の意地なのだと思い知らされます)。これはゲイに関していえば、ゲイで目立つ人には責任が付きまとうのだということだと思うんです。テレビに出て、自分の食い扶持のためにゲイ全体が色眼鏡で見られるようなことを平気でしている人々に、このドクのような矜持があればと思います。ただ、一方で、こういったドクのような人にだけ頼っていては限界があると思いました。確かに、才能があって、影響力がある、例えばリッキー・マーティンやエレン・デジェネレス、レディガガのような人が発信すれば世界を揺らすことができると思います。けれど結局雲の上の人、テレビの中の人、人生の外の人なんですよね。大切なのは彼らの勇気と後押しを得て、僕のような一個人が、自分が大切だと思う友人や知り合いに、きちんと話をできるのかどうか、ということかなと思います。あなたを大切な友人だと思っていて、きっとあなたもそう思ってくれている僕もゲイだったりするんだよということを、個人個人が伝えられるか、自分がゲイであることを受け入れて、それを人に伝えられるか、それがないといつまでたっても日常生活に当たり前の存在にはならないのかなと思います。パレードをするのもいいですが、そうやって一種の社会的圧力のように人々に理解を押し付けるのではなく、近しい人に自分の言葉で伝えることが大事なのではないか、ということを、映画の本質からはずれてしまっているかもしれませんが、グリーンブックをみて感じました。素敵な映画はさまざまな気づきを与えてくれます。素晴らしい映画でした。
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